フィリピン ルソン島に行って来ました。目的は大東亜戦争の慰霊巡拝。大東亜戦争において最も激戦であったフィリピンでは51万8千名の日本人が亡くなり、私の祖父も二人ともフィリピンで戦い命を落としました。 祖父の慰霊と共にバターン半島、コレヒドール島、バギオなど日米軍の激戦地を周り慰霊顕彰をして参りました。
10月21日無事マニラに到着。本日は明日のコレヒドール島見学のため、バターン半島最南端のマリベレスへバスで移動する。 バターン半島は1942年1月から行われた日本軍攻略戦の地。私の祖父が所属した福山歩兵141連隊は第二次パターン攻略戦においてサマット山を攻略したと聞く。車窓から、遠くサマット山を眺望する。85年前祖父がここで戦ったのかと感慨深い。 福山歩兵第141連隊とサマット山攻略。広島県福山を補充担当地とする歩兵第141連隊は、第65旅団に所属し、1942年4月3日に始まった第二次バターン攻略戦に参加した。 日本軍はサマット山を米比軍防衛線の要衝と位置づけ、猛烈な砲爆撃の後、第65旅団が西北麓、第4師団が北麓方面から攻撃を開始。4月5日、第4師団が山頂を占領し、米比軍の防衛線は崩壊した。第141連隊も第65旅団の一翼として激戦に参加し、4月9日のバターン半島陥落に至った。
コレヒドール島要塞は日米両軍が、攻守入れ替わり激戦を繰り広げた島であり、最後1945年には日本軍守備隊約5000人が玉砕している。マッカーサー司令官がバターン半島攻略戦で日本軍に追い詰められた後、コレヒドール島から敵前逃亡したことでも有名だ。 コレヒドール島上陸は、今回のフィリピン慰霊巡礼の旅の目玉である。現地ガイドによれば、コロナ禍から観光連絡船がなくなり、日本人がこの島を訪れるのは5年ぶりだそうだ。今回の連絡船は14、5人乗れば満席の小さなもので、約6キロの水道を20分ほどで到着する。 参加者は船に揺られ気分が高まる。上陸後まず向かったのが日本平和庭園であり日本軍の戦没者追悼慰霊碑がある。まずこの場所で大阪護国神社吉田権禰宜による慰霊祭が行われた。慰霊祭終了後、国家「君が代」「海ゆかば」を斉唱し、聖寿万歳で締めくくった。 慰霊祭の後、島中に残る戦跡を見学し、また米国による太平洋戦争博物館にも足を伸ばした。海岸沿いには、海上特攻兵器である震洋(250キロの爆薬を積んだ 1人乗りモーターボート)の隠し壕も見受けられる。 コレヒドール守備戦では約50隻の震洋が特攻突撃しており米軍に多大な損害を与えたとされている。島中に今でも多くの戦跡が残る。それらを見て祖国から遠く離れた場所で勇敢に戦った日本軍人に心から感謝と哀悼の意を捧げた。
フィリピン・バターン州バランガ市(Balanga City)にある、1942年4月9日の米軍降伏を記念する歴史的な場所を訪ねる。 現在は「Bataan World War II Museum(バターン第二次世界大戦博物館)」があり、隣接する旧バランガ小学校の敷地には、当時の降伏交渉を再現したブロンズ像が設置されている。 日本側代表は永野亀一郎少将、米国側代表はエドワード・キング少将。本間雅晴中将は、この場所に司令部を置いていたが、キング少将との直接交渉には出席していない。現在でも、バターン攻略戦による米軍の降伏のモニュメントが設置されていることに少々驚いた。
本日最後に訪れたのは、マバラカット東飛行場跡に立つ関行男海軍大尉の銅像。日の丸を掲げ、慰霊の誠を捧げた。 昭和19年10月25日、23歳の関行男海軍大尉は、神風特別攻撃隊「敷島隊」を率いてレイテ沖へ出撃。米艦隊に突入し、見事敵艦に命中撃破した。 現在でも、最初の神風攻撃隊関行男海軍大尉の功績を讃え、異国の地で銅像とともに顕彰されている。あれから82年。祖国の勝利を信じ、愛する家族を残し、二度と帰れぬ空へ飛び立った若者たち。 その勇気を日本人は永遠に忘れてはならない。関大尉の命日を3日後に控えた今日、遠く異国の地に立ち、英霊への感謝と哀悼の祈りを捧げた。
【フィリピン・サラクサク峠で英霊を慰霊顕彰】
本日慰霊巡礼の旅3日目。ルソン島北部のサラクサク峠を訪れた。昭和20年(1945年)2月から6月にかけて、ここサラクサク峠一帯では山下奉文大将麾下の戦車第2師団を中心とする日本軍が、圧倒的な火力を有する米軍を相手に、険しい山岳地帯で激しい防衛戦を展開した
サラクサク峠は標高約1500メートルの高地で、今日も寒風が吹いていた。食糧や弾薬が尽きゆく中、将兵は困難な状況に耐え、勇戦を続けたが、最終的には全滅した。慰霊碑には日本軍戦死者4,600名、米軍死傷者約3,200名と記されている。大阪護国神社の神職により、厳粛に慰霊祭が斎行された。
祖国を遠く離れ、この異国の山々に散華された英霊に、日の丸を掲げ、日比国際友好協会参加者全員で国歌君が代斉唱し、深い感謝と哀悼の誠を捧げた。
【激戦の地・バレテ峠で英霊を慰霊顕彰】
慰霊巡拝の旅3日目。サラクサク峠に続き、フィリピン・ルソン島北部のバレテ峠を訪れた。
昭和20年(1945年)、山下奉文大将麾下の第10師団を中心とする日本軍は、圧倒的な火力を誇る米軍を相手に、険しい山岳陣地に拠って約3か月にわたり勇戦したが第10師団はほぼ壊滅し、
日本軍の防御の重要拠点であるバレテ峠を失った。 米軍側の記念碑には、日本軍戦死者7,403名、米第25歩兵師団の戦死傷者2,365名と刻まれている。祖国を遠く離れ、食糧・弾薬も乏しい中、最後まで戦い抜いた将兵たち。
バレテ峠に建つ昭和59年建立の「武運長久祈願」の慰霊碑の前で、大阪護国神社神職により厳粛に慰霊祭が斎行され、日の丸を掲げ、日比国際友好協会の皆さんと国歌君が代を斉唱し、英霊に感謝と哀悼の誠を捧げました。
異国の山々に眠るすべての戦没者の御霊が、安らかならんことを心より祈念致しました。
フィリピン・ルソン島の高原都市バギオにある「英霊追悼碑」において、戦没者大慰霊祭が日比国際友好協会主催で斎行された。バギオは、大東亜戦争末期、山下奉文大将が司令部を置き、圧倒的な米軍を相手に最後まで抗戦を指揮した歴史の地だ。 本日は、大阪護国神社の神職による祭儀のもと、在フィリピン日本国大使館の山崎領事、山下二等陸佐をはじめ、現地フィリピンの方々を含む30名以上の方が参列された。奇しくも82年前の昭和19年10月24日は、戦艦「武蔵」がシブヤン海に沈んだ日。超弩級戦艦武蔵と運命を共にした将兵を含め、すべての戦没者の御霊に哀悼の誠を捧げた。 式典直前まで激しく降っていた雨が、開式と同時に奇跡のように止み、陽光が差し込んだ。まるで英霊が私たちを迎えてくださったかのような、胸に迫る光景だった。日比両国の国歌斉唱に始まり、厳粛な慰霊祭の最後には、参列者全員で「海行かば」を斉唱し、聖寿万歳をもって締めくくった。 祖国のために命を捧げられた英霊への感謝と追悼の念を胸に、平和な日本を次代へ引き継ぐ決意を新たにした。英霊の御霊、安らかなれ。
大慰霊祭が終わって、毎年日比国際友好協会がバギオで大慰霊祭終了後開催している北ルソン比日基金の皆さんと文化交流を楽しみました。私の担当は焼きそばを焼いて振る舞うこと。約30人分を焼いて振る舞ったところ、ソース味が珍しいのか皆さんおいしいと評判でした。 次にお抹茶体験。会員の菊池さんが、わざわざ日本から茶道のセットを持ってきて初めてのお抹茶体験をしてもらいました。私はそのアシスタント。子供たちは戸惑いながらも用意した「ひがし」を食べ抹茶を口に含み、おいしい!苦い!など様々な表情を見せてくれてとても打ち解けた楽しい時間となりました。 日本のお茶は誰にも楽しんでいただけますね。とても楽しい交流会でした。
昨日のバギオでの慰霊祭を終えて、朝からバギオからマニラに戻る。車で約4時間の距離だ。
【豊臣秀吉とスペイン帝国――サンチャゴ要塞を訪問】
フィリピン・マニラの城壁都市イントラムロスにあるサンチャゴ要塞を訪れた。 この要塞は1571年、スペインがフィリピン植民地支配の拠点として築き、1590年頃から石造りに改築された。
当時の日本は豊臣秀吉の天下統一の時代。秀吉が壮大な大阪城を築く一方、スペインは遠くマニラで要塞を強化していた。 1592年、秀吉はスペイン領フィリピンに使者を送り、服属を要求。スペイン側は日本軍の侵攻を強く警戒した。
1594年のスペイン総督の書簡には、日本との外交交渉で時間を稼ぎながら、城壁や要塞の防備を急いだことが記されている。 大阪城が天下統一の象徴ならば、サンチャゴ要塞はスペイン帝国のアジア支配の象徴。
当時、戦国日本の軍事力は、世界帝国スペインをも警戒させる存在だった。430年以上の歴史を刻む石壁を前に、豊臣秀吉の時代、日本が世界と対峙していた壮大な歴史に思いを馳せた。 ただし、同時代の大阪城の方が、サンチャゴ要塞よりはるかにスケールが大きいと実感した。
【フィリピン独立の精神的支柱 ホセ・リサールと日本】
マニラのサンチャゴ要塞を訪れ、フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール(1861〜1896年)の銅像を見学した。
リサールは、スペインによる300年以上の植民地支配に対し、武力ではなく言論と思想によって改革を訴えた医師・作家・民族運動家。
1888年(明治21年)には日本を訪問。欧米列強の植民地支配を受けず、近代化を進める日本に強い関心を寄せ、日本人女性・臼井勢以子との交流でも知られる。
1896年、スペイン当局に逮捕され、サンチャゴ要塞に幽閉された後、35歳の若さで銃殺刑に処された。その志はフィリピン独立運動の精神的支柱となった。
自由と祖国の尊厳を求めたリサールの生涯に、深い感銘を受けた。
【マニラ大聖堂に刻まれた日本への感謝】
フィリピン・マニラの旧市街イントラムロスにあるマニラ大聖堂を訪れた。 この大聖堂は、スペイン統治時代の1581年に創建された歴史ある教会だ。
大東亜戦争末期の1945年、マニラ市街戦において、米軍の激しい砲撃などにより大聖堂は壊滅的な被害を受けた。 戦後、その復興に大きく貢献したのが日本国民だった。
当時の神奈川県知事・内山岩太郎氏の尽力により、日本から実に6万袋ものセメントが寄贈され、大聖堂の再建に使用された。1958年、大聖堂は見事に再建された。
1965年には、マニラ大司教の命により、日本国民への感謝を記した記念銘板が設置された。 現在も大聖堂の壁には、日の丸とともに日本人の善意を伝える銘板が掲げられている。
戦争の悲劇を乗り越え、復興に手を差し伸べた日本の先人たち。 遠くフィリピンの地に刻まれた日本とフィリピンの友好の歴史を、私たち日本人も大切に語り継いでいきたい。
一般社団法人日比国際友好協会令和8年度フィリピン慰霊巡拝5泊6日の最終日のディナーは、ホテルの屋上でマニラの夜景を楽しみながらのとても美味しい食事でした。
今日までの5日間の慰霊巡拝はとても有意義なもので、会員全員が満足し、会話も大いに弾みました。
≪一般社団法人日比国際友好協会 令和8年度フィリピン慰霊巡拝≫
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【水ノ上成彰 事務所】
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